2016年1月9日土曜日

小学校低学年からの英語教育について

越直美市長は常々ご自身の米国での「英語体験」にもとづいて、その能力の不十分さを痛感され、大津の子供たちには立派な「国際人」になってほしいとの強い思いから、他に先駆けてでも大津市で小学校に英語教育を導入すると宣言されてきた。これはその言葉通りの意味においては正しいと思う。

まず私の英語教育についての基本的な認識をお示しする必要があると思う。

何年か前のマスコミ報道でもアジア諸国の中で(あのDPRKを含めても)我が日本人の「英語能力」は最低であると報じられたし、私の拙い4年間の米国生活の中でも,自分を含めた日本人の英語能力は、まわりのアジア出身のAsian Americanと比べて明らかに劣っていたとの認識を持っている。1500人ほどの半導体製造工場の中で日本人は30人ほどだったが、その他の従業員の人種数は細かく数えれば30は超えていた。まさに人種のるつぼ、アメリカ合衆国であった。

ただ工場の塀の中では、現場のワーカーにせよ事務所のエンジニアにしろアドミニストレーションにせよ、重要なことはE-mailで済ませる必要があったし、書き言葉は日本人は比較的得意であったので大きな問題はなかった。
一番の問題は会議であった。会議のルールはメンバーに一人でも日本語を母国語としない人がいる限り、その他が全員日本人であっても英語(米語)を使わないといけないというものだった。米国社会では(特に西海岸では)そのような状況で日本語を使うことは差別とみなされた。
会議の中で話し言葉で通じ合えない場面ではホワイトボードを用いて、書き言葉に直してコミニュケーションをはかった。英米人と、特にビジネスシチュエーションではこのような方法は全く抵抗なく受け入れられた。日本人が一般に相手のことを慮って、わからないことを何度も聞き正すことに躊躇して消極的になる傾向が強いが、そのような心配は全く稀有であることを学んだのも、また大きな収穫であった。

こうした体験から学んだのだが、実は「国際人」とは流暢に英語を操れる人のことを指すのではなく(もちろん流暢に操れるに越したことはないが)、相手をコントロールして---このためには幾つかの限られた、相手をコントロールする言葉(これをcontrol wordsという)---を身に付けるだけで十分なのだが、自分が伝えたいことが確実に相手に伝わっているかどうかを知る能力に優れた人のことを指すのである。

そこで小学校における英語教育はどうあるべきかについて話を戻すと、これはひとえに、大津の小学生にどの程度の「英語能力」を身に付けさせたいかという目標設定にかかっている。
文科省が2020年から始めようとしている(と伝えられる)教科としての小学校での英語教育の目標設定がどうなっているのか、評価基準がどうなっているのかについては現在のところ詳らかではない。したがって現時点で小学校英語のカリキュラムを設定するには「大津市独自の目標」を設定する必要があるということになる。

越直美市長は、平成25年9月もしくは10月頃から、教育委員会事務局の職員を使って予算案を策定し始めた。職員を絶え間なく市長室に呼び出し、何度も何度も数字合わせのために中味を書き直させ、教材業者に見積もりを取らせ、更には文科省に人を派遣して大津市の意図を説明させて進めようとした。
ある時から私はそのことに気づいたが、言い出したら聞かない人、聞けない人だから(その裏には、市長選挙のマニフェストに書いてある、民意で選ばれたのは私だから、それを進めるのが私の仕事であるし、選挙で認められたことであるというロジックがある)、11月、12月、平成26年1月段階での教育委員会メンバーとのこの件に関する協議会でも、取りつくしまがなかった。

目標や評価といった基本的な総論の議論は一切なく、各論も各論、ALTを何人にするか、配置はどうするか、モデル校の選定はどうするか、あれこれの教材の時間配分はどうするかといった、およそ教育委員会と市長の協議会で議論すべきことがらではないことに終始した。暴走特急であった。

重要なことは、文科省に派遣された職員が、担当官からそれとはなしに諭されているという事実だ。
「なぜそんなに急いでやろうとするのか、文科省が方針を策定中であるのに、大津市が先走ってやって、後で文科省の方針に合わせなければならないことになるのだが」。
しかし、読者のみなさんお察しの通り、このようなことを聞き入れる人ではないから市長には伝わっていない。

私は渡辺武達先生のような、英語教育に深く精通し言語学の見地に立った英語教育の原理にのっとって、じっくりと 練り上げるべきものだと考えている。今のモデル校で行われている試行は、いつも市長ご自身が「そんなことはカルチャースクールに任せるべきだ」という批判をそっくりお返ししたい。1億5千万円もの税金を投入してするべきことではない。






5 件のコメント:

  1. なるほどなるほどと思いながら読みました。英語教育の実態はそんなお粗末な暴走特急だったんですね。学校図書のわずかな金を削って英語押しつけに1.5億円て信じられない。費用対効果はどうやって確認するの??税金のムダ遣いと思います。

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  2. 言い出したら聞かない人、聞けない人・・・は、富田氏がおっしゃるように
    やはり「不熟」(「未熟」ではなく)です。
    「不熟」な人が大津市の首長にふさわしいわけがありません。
    「不熟」な人に大津市政は任せられません。

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  3. 何語で話すにしても、話す中味がなによりも大切です。
    ものすごくいいことを言っているあの人、同じことを英語で話せないんだよねとなってきてはじめて、英語を話せないもったいなさが生まれると思うんですよ。
    小学校低学年は、ものごと(具象)を言葉(抽象)に置き換える頭の基礎固め期だと思います。民法用語でいう弁識能力を育成することが大切です。誰かをいじめてはいけないという道理も弁識能力を通じて身に着くことを思えば、英語偏重カリキュラムのメリットとデメリットを熟考する必要があると思います。
    視野を広げずにパニックのような進め方だなんて、それは低弁識能力者による高弁識能力育成妨害みたいな気がしますねえ。

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  4. 失礼致します。

    富田様は、

    朝の読書と英語教育はもちろん共存できる(その1) http://tomita-archives.blogspot.jp/2016/01/blog-post_3.html にて、

    「大事なこととして「間髪を入れることなく、ロケットスタートすること」と教えられた。」
    「私は今もって「拙速」を非難する言葉使いが嫌いである。」

    と書いておられますが、本記事では、市長のロケットスタートを暴走と非難されていて、矛盾しております。

    今回の英語教育の問題点は、1億5千万円という多過ぎる予算です。しかし英語教育を積極的にしなくて良いという理由はありません。

    多くの小学生が民間の英語教室に通っており、学校よりも民間の教室の方が重要な役割を果たしているという現状があります。その時に、文科省の取組みが確定するのを数年間待つというのは、公共教育の役割を一部放棄していることになります。更に言うと、文科省の指導の下、数十年間日本人は英語教育に取り組んだにもかかわらず、基本的な会話すらできない人が大半であるため、文科省の指導に従順ということは、英語教育に無責任だということになります。

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  5. 英語教育は勿論大切ですが、ロケットスタートというのは、十分な合意や予算的裏付けの伴わない暴走のことではありません。
    限られた財源の中で優先順位を見定め、審議・議決したことなら、間髪を入れることなくロケットスタートすることが大切なのは、言うまでもないことです。

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