2016年1月8日金曜日

回答と訂正 家庭の”か”の字も口にしてはならないの件

「特別総集編  ここに私たちが取り組まねばならない魂のエッセンスがある」で質問に対する回答コメントとして書いた内容と同じですが、記事としても再掲いたします。

まず、「特別総集編ここに私たちが取り組まねばならない魂のエッセンスがある」でいただいた質問コメントは、以下の2件です。

★ところで、越市長が「家庭の“か”の字も言ってはいけない」と言われたのはどう言う意味でしょう?
もしかしたら、「いじめられる側にも問題がある、家庭環境に問題があるからいじめられる」という論議に対して、いじめる側が100%悪いので、「家庭の“か”の字も言ってはいけない」と言われたのなら、頷けないでもないのですが……。
★家庭のかの字も言ってはいけない、この意味を知りたい

これらは、私の次の記述に関する質問でした。
私が教育長に就任した直後に、ある教育委員さんからいじめ問題に対する越直美市長の認識についての象徴的な発言を知らされた。それはいじめ問題の全体についてであるが、市長はその教育委員の発言を制して「家庭の“か”の字も言ってはいけない」と述べられたそうである。

以下お答えいたします。事実関係を時系列に従って整理すると次のようになります

越直美市長と教育委員長(H25年当時)のやり取り経緯

1. 教育委員長(当時、以下委員長と略記)が平成25年1月10日の教育委員会定例会で「私はいじめ対策に取り組む。重要なのは倫理観の構築である。このことについては家庭が主役である。人権教育、道徳教育、は学校で行う。倫理観の構築も道徳教育も絶え間なく続けなければならない」と発言した。

2. 定例会後の囲み取材で、読売新聞から「いじめというのは学校の問題ではなく、家庭の問題である、ということではないか?」と質問され、「そういうことではない、全然ないです。倫理感の構築は、保護者として私が一番しなければならないこと」と応えた。さらに、「学校に責任があるのは勿論ですが、家庭教育もいじめ対策として重要だと思う」と発言した。

3. これに対して、越直美市長は翌日(1月11日)の市長定例記者会見において、記者から質問されていないにも関わらず、委員長の発言について批判した。
「家庭教育に問題をすり替えている、教育委員会として対策ができていない段階で、家庭教育の重要性を言うのは責任転嫁」という点と、「家庭教育が重要というのは政治的発言である。個人的見解を述べるのは、政治的中立性を求められる教育委員として問題」という批判をした。

4. これをうけて、委員長は市長に会談を申し入れ、1月17日に越市長、笠松副市長(当時)、2名の教育委員(当時)の合計5名で約50分間会談した。この会談の中で、越市長が(委員長が先の囲み取材で)「“学校よりも家庭の責任か”と問われ、“そうです”と答えたそうですね」と(委員長に)問いかけたので、委員長はボイスレコーダーを起こしたものを示して、「このように全く違います、この記録のように私はそれを明確に否定しています。“保護者としてできることは家庭教育であり、これも重要です”という趣旨です」と答えた。委員長は越市長が委員長の発言のごく一部「保護者として私が一番しなければならないことは家庭教育」を前後の脈絡を省いて聞かれたのかと考えた。

5. 定例会見で越市長が委員長の真意を確かめることをせずに批判したことについて、委員長は謝罪を求めたが謝罪はなかった。委員長は、市長がむしろ“委員長の発言が市長の誤解を招いた”との認識を持っているように感じ取った。

6. 委員長は、市長が“政治的発言”と批判したことについて、市長にその意味を問うたところ、「委員長が“家庭教育が重要”と発言したことです」と明言した。

7. 委員長が「家庭教育について発言するのは政治的発言になるのか」と重ねて問うたところ、市長は「完全に政治的です」と答えた。何度かのやりとりがくり返されたが、教育委員全員が「家庭教育が重要」という発言が政治的発言であるとは全く考えておらず、教育委員の間では“市長と教育委員の間には日本語の語意、語感にずれがある”との共通認識をもった。
(これら一連の会話を再録することは可能であるが、以下、質問者の論点とは離れるのと、個人の名誉にかかわると推量される会話なのであえて伏せて省略する)。

本件は、委員長の家庭教育に関する発言の一部だけを取り上げて越市長が記者会見の場で発言したもので、事実誤認に加えて「政治的発言」という不適切なレッテル貼りであったと言わざるをえない。これを問題視した教育委員との協議においても自らの過ちを認めようとしなかったわけである。

なお、本件を含む越直美市長の委員長に対する名誉棄損(法的に厳密な意味ではないが)と非礼の極みの事件は、それ自体社会常識的、人間的に大きな問題であるが、そればかりでなく、正確な事実等に基くことなく教育委員会への一方的な評価を社会に公言したという点において重大な事件であった。
当時、教育員会はいじめ事件に関する真摯な反省のもと、事実の検証や再発防止策の検討に必死に取り組んでいた時であるだけに、本来、連携協力して対応していくべきパートナーとしての市長から、このような言動をされたことについて、深刻に受け止め、憂慮していたところである。
そこで、既にコンプライス違反の疑いの濃い他の2件とともに正式に要望書として謝罪と名誉回復を求める文書を私富田から2013年6月1日15日15時からの市長協議の場で市長に提出し、かつ委員長からも経緯のまとめの文書を市長に渡して協議を繰り返したが、3年を経過した今も、なんの音沙汰もない。

このことは、越市長がいじめ事件で全国の注目を浴びる中、手のひら返しをして世の非難から身をかわしたことや、教育委員会と真摯に向き合って大津の子どもの教育のために協力していこうという姿勢に欠けていることと一連のものである。私を含む当時の教育委員は、いまだに越市長の答えを待っているところである。

●上記の事実関係に基づいて前記事を以下のように訂正するとともに、お二人の質問者のコメントに私なりにお答えします●

まず私が越直美市長の発言として「家庭の“か”の字」もいってはいけないと発言したかの如き記述したのは、確かに私が直接聞いたわけではなく、また直接聞いたとの伝聞情報を得たものではなかったので、これをお詫びして取り消します。また、事実に即して以下の通り訂正します。

<訂正>

上記“やり取りの経緯”の中の第3項、4項、5項、6項、7項の事実から、当時の教育委員の間では「市長の前では“家庭の か の字”も言ってはいけない」という共通認識が定着しており、家庭のことが話題になるたびに、実際の会話として「市長の前での発言は“家庭の か の字”も言ってはいけない”」とお互いに注意し合っていた。

この共通認識の定着は、越直美市長が2012年7月にこの事件についての認識を大きく変更したこと、その後の第三者調査委員会の立ち上げやその報告書の内容に家庭のことは一切触れられていなかったことに対する確信、そしてそのことを厳しく守るよう教育委員会に求め続けたこと、その結果として前述の委員長とのやり取りに見られるような、委員長自身が証拠をもって明確に否定されていることも受け入れずに、自説を強弁し続けたことなどから醸成されたものである。とにかく市長の前では“家庭の か の字”も言ってはいけないということは、当時の教育委員会のメンバー5人全員が胸に刻んでいたことであった。

次に越直美市長がどのような意図をもって、上記第3項から7項にわたる発言を繰り返されていたのか。非政治的なものを政治的と称すること自体が政治的な立場であり、あの時の大津市トップの振る舞いとして適切であったのかどうか私には大いに疑問です。しかし、まさにこれは越直美市長に直接お答いただくのが妥当だと思います。そのことを踏まえたうえで、私なりの推測を述べるのはたやすいことですが、市長選挙前の微妙な時期ですので今は控えたいと思います。

越直美市長は第三者調査委員会の報告書の内容を唯一の根拠として、一方向に重点を置きすぎた認識により、このような発言を繰り返しきた。それはその後、そのような認識に基づいて「大津方式」や「大津モデル」に発展し、市長部局に「家庭のことは問わない、ただ児童・生徒の心に寄り添い相談を受けて励ます組織」を立ち上げられたのだと思います。

勿論そのことの意義を否定するものではありませんが、「誰にも言わないで」という子どもの判断を尊重しながらも、時にそれを越えて踏み込むことが大人の見識であり、いじめ問題の克服には欠かせない事であると考えます。この活動をもって、大津市のいじめ対策の推進力というのは全く不十分であり、それどころか学校現場の戸惑いを生んでいる現状は早急に解消されなければなりません。
学校現場でのいじめ事案が重篤化するか、早く克服できるかの分岐点は何をおいてもいじめている側の児童・生徒やその保護者と手を携えて導いていけるかにかかっています。そのことに関わらない「いじめ対策」などはありえないと考えています。

さらに突っ込んで、家庭の問題とは加害側の家庭のことか、被害側の家庭のことかとの質問もありました。これも越直美市長に直接お答えいただくしかありません。

私自身は、いじめの克服に向けては家庭の意義を大変重視しており、私の今日時点での答えは既に投稿済みの、村田昇先生の教育思想であり、藤原家の父の教えの通りであります。このことは学校現場をあずかる教職員全員が共有していることであると確信しています。

写真は滋賀県のまち風景。大津市なぎさ公園、濃霧の近江大橋湖岸です。








11 件のコメント:

  1. 1~3と、当ブログの12/19“教育長就任当日のサプライズ”を一連の流れとして捉えると、ひとたび教育委員長を批判的な目で見始めたらどんな弁明も聞き入れない、謝罪もしない、「市長の教育委員長いじめ→教育委員会敵視」という構図が見えてくるように思えました。

    この件については、25年2月定例会で、伊藤茂議員も質問されています。(平成25年2月定例会-02月27日-03号P144)

    ー以下、抜粋ー
    >……本当にある意味、聞いているのがおぞましいといいますか、悪意や憎悪に満ちたような教育委員長への非難の言葉であると私は感じましたし、およそ市長とは思えない言動ではないのかなあということしか私には感じることができませんでした。ある意味、越市長が教育委員長をテレビの前でさらしものにしていじめているんかなあというふうなことで、嫌悪感さえ覚えました。本郷委員長につきましては、越市長御自身が昨年、教育委員に再任された方でもあり、市長としての任命責任さえ問われへんような事柄やったんかなあというふうに考えております。

    ◎越直美 市長  先ほどお答えいたしましたとおり、教育委員とはこれから十分な話し合いをしていきたいというふうに思っております。そして、2月19日の件につきましては、今議員がお述べになられましたとおり、再度報告書、検討結果を提出されるということでしたので、再度検討される際に反映してほしい事項として3点申し上げた次第でございます。
     以上でございます。

    ◆4番(伊藤茂議員) 再々問を行います。
     私は今、報告書の中身がどうこうという話をしてるわけではございませんで、世の中にはある意味、自覚して自分が人を傷つけたほうが自分の心にも傷が残って、ある意味罪が軽いというのかな、そういう部分があると思います。無意識のうちに人を傷つけてしまうということは、全く自分の中で自覚が残らないということで、本当に平気でございますし、何度も人を傷つけるようなことがあるのかなあと思います。ある意味、教育委員長の心中を察したことがあったのかなあというふうなことが、今この申しました質問の中で、いじめの定義はいじめた側ではなくいじめられた側がどう思うかということでございますけども、まさに今回の質問で私が言いたいのはその部分でありまして、市長におかれましては、先ほどの私が感じた嫌悪感、そういったものを教育委員長に与えることはなかったのかというふうなことを改めてお聞きしたいと思います。

    ◎越直美 市長  今議員が申されたような嫌悪感を与えるような意図はございませんでした。
     以上でございます。

    ー引用終わりー

    このやりとりからも、市長としての資質以前に人間性を疑わざるを得ません。
    自分が意図せずに人を傷つけたかもしれないことを指摘されたら、人として「もし傷つけていたとしたら申し訳ない」の謝罪があってしかるべきですが、一切ありませんでした。

    プライドと感情に妨げられて、自ら作り上げた鉄則「家庭教育が重要というのは政治的発言」にしがみつき、その結果「家庭の“か”の字」も言ってはならない」という空気を醸成されたということがよくわかりました。
    ありがとうございました。

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  2. 伊藤議員と越市長のやりとりを見て驚きました。富田氏の記事は最初は分かりにくかったのですが情報量が増えるにつれて全体が見えてきました。当時の空気も想像しながらの判断ですが、越市長は家庭問題をどうこういうより、少なくとも教委の責任は明白だから、その点だけを責めようとしたんでしょう。安全パイ一本やりです。別の可能性はこのさいどうでもよい、少なくとも教委が悪いことは間違いないというわけです。それが今のいじめ対策室の被害児童中心主義に結びついたというのが富田氏の指摘のようですが、いわれてみればなるほどそうかもと思います。当時PTAの間では学校、教育委員会以外の問題もあるのではと多くの人が感じていました。これは事実としてそういう感じ方をしていました。

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  3. フムフム、教育長以下教育委員会をスケープゴートにする一方で、記者会見でいじめ被害者が痛ましいと涙を流す心優しい女性市長を演じていたとは!
    騙されていたことに気づいたら、誰も相手にしないでしょう。

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  4. この話だけではなくて、「当該中学卒業式前のサプライズ」、パワハラ、公用文書毀棄、図書館民営化の人事、英語教育における市教委への越権行為など、越市長には手段を択ばぬ身勝手さとコンプライアンス欠如がえらく目立ちます。

    で、また、今回は新たな側面、いじめ対策における家庭教育の重要性を語れば市長に対する政治的発言になるというのを見せてもらいました。しかし、なんでこんなことが政治的なんでしょう。わかる人手を上げてみたいな話です。

    政治的は様々なニュアンスで使われますが、今回の場合は、策略的とほぼ同義に解釈すればいいような気がします。越市長の場合、学校のいじめ対策に全力を尽くす市長と見てもらえるように、対策に全力を尽くすよりも見てもらえるほうに全力を尽くしてきました。その膝下から家庭教育の重要性が出てくるようでは具合が悪い。つまり、私の路線に敵対してくる奴、私を脅かそうとしてくる奴と、こういう受け取り方になるんでしょう。そこで、策略的とほぼ同義で政治的と言い出すんではないでしょうか。

    この知覚過敏ともいえる対人感覚、他者から常に追い詰められているかの如き焦燥感というのは、このときの市教委だけでななくて、全職員に向けられているのだろうと思います。そうでもなければ、市職員をここまで委縮させることはできません。
    これに加えて、手段を択ばぬ身勝手さとコンプライアンスの欠如。別もののように見えて、実はその母胎もこの対人感覚だと思います。この対人感覚のなかであらゆる自分勝手が正当化されている。あたかも正当防衛の如く為すべきこととして彼女を動かす。そして、ときとしてそれは法令違反にまで及ぶ。私はそんな風に思いますねえ。

    そんな彼女をパニクらせる材料のひとつとして、いじめ対策における家庭教育の重要性がある。見方を変えれば、これが弱点。誰でも口にしそうなことへの過敏なリアクションですから、ユニークかつ大きな弱点だと思われます。

    この弱点はいったい何ゆえでしょうか。ここのコメント投稿は明日までということですので、次のコメントで大胆にいかせてもらいます。

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    1. 次のコメントで大胆にいかせてもらいますと言いました。

      例のいじめ事件がらみになりますが、越市長の手段を択ばぬ身勝手さとコンプライアンス欠如があの問題に限っては眠っていたのだろうか?という疑問が私にはあります。

      ご承知のように、遺族が大津市に対して損害賠償の提訴を起こしていました。越市長は第2回口頭弁論で和解協議を進めたい意向を提示、それを遺族側も了承。そして、3日後の記者会見で、和解への方向転換が公表されました。
      和解を目指すということは、あれはいじめによる自殺ではない、市に過失はないとの主張をあきらめることです。そして、いじめと自死に関連性があったと認め直し、自死と家庭環境との間には関連性がなかったと言い直すことです。ただし、真相究明はこれから立ち上げる第三者調査委員会に委ねるということで、その最終結論が出るまで、真の要因は未確定扱いとなりました。市の過失はいましばし宙ぶらりん状態になったわけです。

      とはいえ、越市長はすでに和解を決めてしまっています。自死の要因はいじめ100%で家庭0%という報告が第三者調査委から出されないことには、早々に和解を決めた自分の立場がありません。市役所内にはフライングとのヒソヒソ話もあったそうです。当時の越市長、これはギャンブルだと肝を据えていたのか。あるいは、先行きへの自信充分だったのか。

      果たして、第三者調査委は、いじめ100%家庭0%の報告を提出し、大津地裁はそれを追認しました。実際の和解では遺族側の言い分が存分に認められ、要求満額に近い4100万円が市から遺族に支払われることになりました。越市長が見込んだ通りの結末になりましたというのも、市が完敗したのだから変な話ですが、他に言い様がありません。

      ところで、遺族側は、加害少年3人とその保護者を被告とする損害賠償請求も提訴しています。第三者調査委報告書の内容に対して加害少年側がどのように反駁しているのか、「大津中2いじめ事件裁判支援」のホームぺージから抜粋すると、●越市長がいじめを認める方向での調査を指示していた●事細かに原告の意向を汲み入れながら作業が進められた、といったことになります。「事細かに原告の意向を汲み入れながら」のひとつに、第三者調査委の委員5名のうち3名が遺族側の推薦だったことを挙げています。その比率で第三者なのかと、私ですらも素朴な疑問を感じます。

      加害少年側が報告書が公正・中立でないと反論するのは、自らのいじめ行為を認めたtくないからです。私の場合は、事実を集めていくだけでここまで遺族側の主張に忠実な結果が生まれるものだろうかと、そこが不思議でなりません。何か根拠があって言うわけではなくて、生活感覚がそう問いかけてきます。

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    2. 第三者調査委が事実を集めれば集めるほど、いじめと自死の関連性が確実になっていく。これはあると思います。反面、他要因との関連性をうかがわせる事実も増えていくことはなかったのでしょうか。富田氏は第三者調査委報告書が出てから教育長に就任したわけですが、「関係者を対象に独自の聞き取りを進めるうちに(報告書に)追随しがたい部分も出てきた」と書いています。

      第三者調査委も時間との戦いで、判断材料をどこかで断捨離し、信憑性の高い重要事実をきちんと体系づけて結論を出さねばならない立場だったことは理解しています。人のやることですから神様ほどの公正・中立があり得ないことも理解しています。ですから、どれだけ偏りや歪みを排除できるかが結論のクオリティーを左右します。

      もうここから先は仮説、私の頭が描く可能性にすぎません。

      越市長は和解を目指していました。それは、遺族に寄り添い、少年の尊い命をいじめ対策に生かしていく決意の具現化でもあったことでしょう。同時に、学校のいじめと戦う市長に至る最短コースでもあったと思います。

      ただし、この路線には学校と市教委の責任がすべてというゴールがもっともふさわしく、市の全面敗北で終わってくれるのがいちばんではなかったのでしょうか。なぜなら、越市長の早々の和解表明は、市の完敗と引き換えに自らの名声を手にする方策でもあったと思うからです。遺族の側に立って動けば動くほど世間から評価される状況がたしかにありました。市を切り捨てた市長という風評が内から聞こえることはあっても外から聞こえることはあまりなかったことでしょう。
      つまり、これはひとつのサクセス・ストーリーの始まりであり、何があっても昇りたいシンデレラ階段だったと思うのです。

      その状況に身を置いたとき、手段を択ばぬ身勝手さとコンプライアンス欠如の越スタイルは目を覚まさなかったのでしょうか。困難な局面も、困難でない局面もそのスタイルで切り抜けてきた越市長が、このときばかりは矜持を正していたのでしょうか。しかし、ちょっと目を転じれば、結論ありきの検討会や有識者会議は越市長の常とう手段だと多くの人が言ってます。

      あくまで可能性、仮説ですよ。そういうことまでやったのではないかと思えてしまうほどの市政運営手法だという理由で言ってることですから。

      でも、なんか、そういう何かを想定しなければ、いじめ対策における家庭教育の重要性をめぐる変な現実ですね、これを合理的に説明できないのです。それは政治的発言だなんてねえ。家庭の”か”の字を口にした途端に市長の政敵だとみなされる。これはよほどの弱みを隠し持っているのだと思えてなりません。

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    3. 訴外広樹君。「大津中2いじめ事件裁判支援」のサイトで法廷の進行記事を見るたびに目にする名前です。ご遺族と力を合わせてきた吉原稔法律事務所の裁判支援サイトが公開している名前ですから、もう隠すこともないのだと思います。広樹君はいじめられていた少年です。

      訴外というのは法律用語で、原告や被告ではあっても当事者ではないという意味です。広樹君はこの世を去っていますから、原告側に名を連ねることはできても、いられる場所は訴訟の外側です。見ることも、聞くことも、話すこともできません。

      学校との連携を前提としない越市長のいじめ対策推進室。彼の魂は本当にそのいじめ対策の中で生き続けているのでしょうか。彼は、本当に、学校の先生たちに助けて欲しくなかったのでしょうか。大津市は学校の先生たちをもっと鍛えなくてもいいのでしょうか。

      越市長の教育行政には理屈優先、実効性二の次の傾向があるように思えてなりません。遠くの相談室より近くの先生という現実的解決に力を入れてはいかがでしょうか。
      子供たちを預かっているのは学校です。越市長の学校不信がいくら大きくても、客観的に見れば、学校は多種多様な好影響を子どもたちに与えています。学校が現存するというのに学校不信に根差す教育行政を推し進めようとするから無理が生じるのでしょう。
      これは、どんな教育施策を導入するか以前の話で、リアル世界をあなたはリアルに感じ取っているのかといった認知の問題です。無視できないものは見るしかない。なきものにすることはできません。
      越市長の場合は、市政というリアル・ワールドの典型に身を置きながら、ものごとの認知となると自分だけのバーチャル世界に身を置いて、あるものをないことにしているようですらあります。

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    4. そして、そこに加えて、家庭の”か”の字ですらも毛嫌いする変わったクセがあります。

      たしかに、あのいじめ事件では彼が暮らす家庭環境が自死を招いたのではないと、第三者調査委員会が認定しました。家庭の”か”の字も考えなくていい事件であったと第三者調査委員会が結論付けたことになります。そのことだけを踏まえれば、第三者調査委員会報告書に基づくいじめ対策は家庭の”か”の字も考えなくていいという理屈になります。

      しかし、子供の自死を夢にも思わなくてよかった理想の家庭ですらもあのような悲劇に見舞われた。そこが現実の残酷さです。あれだけ子供思いのご両親ですら彼の苦悩を知ることができなかった。ご両親の無念はいかほどか。彼は私たちに大きな宿題を残していってくれたのじゃないでしょうか。

      けれども、これは、いじめられる側の家庭に対して過失を問うという発想ではありません。いじめる側・いじめられる側にかかわらず、家庭環境についても目を向けようと言っています。過失は法廷が決めることです。教育行政は法廷ではありません。いじめ対策の論議は口頭弁論ではないのです。

      にもかかわらず、家庭の”か”の字も顧みることのない対策を好む越市長。そのココロは何なんでしょうか。当たっているかどうかはいざ知らす、私はこのように思います。

      まず、学校のいじめと戦う市長というサクセス・ストーリーの結末は、被告になるリスクゼロで市長の座に居続けることだったのではないかと思います。
      では、どうすればいいか。裁判にならないかぎり被告にもなりませんから、被害者側から提訴されないようにすればいい。そのためには、被害者家庭の過失ゼロ状態が前もって保証されていればいい。その具体的手法は、どのようないじめ事件においても学校と市教委が過失のすべてを無条件に負うという暗黙のルールです。この路線は、和解へ舵取りがなされたあのときにスタートしたのではないかと思います。

      あのいじめ事件において、もし被害者側家庭の過失が認められていたとすれば、それはこの路線からの脱線だったことでしょう。なぜなら、ぐうの音がでないまでに学校と市教委を抑え込む優位性を手に入れにくいからです。学校と市教委にすべての過失を負わせるというようなルールを成文化できるはずもありません。市の損失を前提とした不条理なものだからです。それだけに、力で学校と市教委をねじ伏せておくことになります。
      越市長は、自死と家庭環境に関連性はなかったという結論をなんとしてでも手にしたかったはずです。そして、みごとと言いたくなるほど筋書き通りの結末となりました。

      どのような第三者調査委員会にするかでご遺族との合意に至った内容は、まな板の鯉となった大津市の姿を見るようでした。ご遺族がどこまでを望まれたのかは知りませんが、大津市側には立場の苦しさもあったと思います。ただ、過剰な忖度が第三者調査委員会にかえって無駄な色付けを与えたようにも思えます。それに、少しでも市に利を残そうとする意識がどれだけあったのかを、越市長や市議会に聞いてみたいところです。

      いわば、それだけ越市長は必死だったのだと、上述したような想定を踏まえて思うわけです。何かにとりつかれたときの越市長の市政運営手法は、大津通信や富田アーカイブが伝えてきた通りです。きわどい行為の可能性も想定されますよねえ。STAP細胞はあると思いますか?と越市長に尋ねるのはあまりにも非礼というものですが。

      このように考えてきて、家庭の”か”の字すらも政治的であるココロにようやく近づけた気がします。ひとつには、市教委の犠牲の上にリスクゼロを達成せんとする越市長の本音をつくことになるからでしょう。もうひとつは、市教委掌握に至るまでの経緯がどこか策略的であり、成文化できない力関係の脆さを本人がいちばん感じているからでしょう。

      みなさんそれぞれにお考えのあるところですが、私はこのように政治的を理解しました。
      そして、いま、強く思っています。家庭の”か”の字すら毛嫌いするいじめ対策の予算が、家庭環境の重要性をよく知る納税者によって賄われてはならないと。学校との連携も然りです。

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  5. 教育委員会と越さんの間の懸案は山ほどあって全部ヘビー級です。選挙までに書いてほしかったです。
    越さんの独善的な見方や報道の事なかれ主義をすこしは教育委員会の立場からきちんと説明されるのかと期待してました、、、、

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  6. どなたかが「越直美市長と私(あるいは当時の教育委員会)のバトルは中身が空っぽ」と書かれていましたね。私も我がことながら、とても空っぽとは思えません。空っぽなことに精力を使い果たすほど暇ではありませんでした。
    大きな背景として日本のマスメディア、評論家、学識経験者が自らは決して叩かれない安全な位置にいて、安心しきって、口をそろえて、横並び主義で大津市教育委員会を叩いていました。最近、大新聞や大TV局の記者と話す機会が結構あって、私が当時のことを問いただすと、全員が声をそろえて「家庭のこと」を書くのはタブー、極めてリスキーだと語っていたのが印象的です。私は彼らに常に「第4の権力にはもうちょっと腹を据えてほしい」と語りかけています。

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    1. わかってもらってないから、私のコメントをコピペします。

      富田氏は何をどう進めようとして越市長とどのようにぶつかり合ったのですか?
      どの記事を読んでも富田VS越のバトルについては、中味が空っぽです。
      大津市の教育行政をどのようにしたかったのですか?
      6つの約束なんて似たような掲示がどこにでもあります。ラーメンチェーンの厨房にも貼ってます。

      富田氏は、越市長と直にぶつかりあった様子を書いてくれましたか?
      その描写を通じて越市長ではいけないのだと読者に訴求し、世論を作ってくれましたか。
      たとえば小学校低学年からの英語教育。いちばんバトルしたはずなのに、何も書いてないでしょ。越市長は何を教委に無理強いし、教委はどう歯向かったのでしょうか。そこに越市政の欠点がギッシリ詰めのはずなんですよ。
      ところが、富田氏が書いてるのは朝の読書のことばかり。富田氏の教育理念や自慢話を書き連ねたところで越市長の実像を描き出せるはずもありません。
      越市政のよしあしを判定できる情報が何も含まれていない記事ばかりだから、「どの記事を読んでも富田VS越のバトルについては、中味が空っぽです」と不満を述べました。
      6つの約束の掲示も、あれでいじめが防げると誰か信じますか?その話を出してくるのならば、学校の先生方の実際の感想などで価値と効用を裏打ちすべきでしょ。それがないからラーメンチェーンの厨房にも貼ってあると揶揄したのです。

      今だってそうです。大きな背景を持ち出す必然性は何ですか?
      越VS富田のバトルとどう関係するんですか?
      富田氏が教育長を務めた時期は、第三者調査委員会の報告書が出た後で、裁判の口頭弁論はいつも原告側だけで終了し、和解を待つだけでした。マスコミは書くネタもなく、家族のことを書けばリスキーというような熱いスパンは過ぎていました。

      私も富田氏と同じように川本勇市長の誕生を望んでいます。越流教育行政のおかしさを富田氏が大いにアピールしてくれるものと期待してたんですよ。もう9日。公示前にやれるはずもない・・・

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