2015年12月25日金曜日

これでいいのか大津市のいじめ対策(その1)

 ひとつ前の記事でお伝えしたように、私の大津市教育長就任は、第三者調査委員会の調査報告が出た直後である。それ以前は瀬田工業高校校長を務めていた。教育現場に身を置いてはいたものの、報道される以外の事柄をあれこれ把握できたわけではない。

 2012年2月、自殺した少年の遺族から損害賠償請求が提訴された。当初、市は、いじめと自死の関連性を認めず、争う方針でいた。しかし、越市長は、同年7月の記者会見において、いじめと自死の関連性はあったと思うと踏み込み、市教委の調査がずさんであったと指摘し、和解に向けて進む旨を表明した。

 いじめと自死との関連性は想定されて然るべきだ。ただ、自死であるから、多種多様の要因が複雑に絡み合う状況下での大変な覚悟だったという想定も忘れてはならない。予断と偏見に陥ることなく、学校環境、地域環境、家庭環境など複合的な要因を検討対象とする必要がある。
 学校にも、市教委にも、視野を広げて事件の真相に迫ろうとする姿勢が欠けていた。この点は否めない。学校と市教委の反省点は少なくないが、ここが大きな反省点のひとつである。現在は、学校も市教委も、この反省と真摯に向き合いながらいじめ再発防止に努めている。

 同じことは越市長にもいえる。いじめと自死との関連性の裁定はあの問題の最重要点ではあったが、それだけがすべてではなかったはずだ。裁判のさらなる進行が複雑な事情をさらに紐解き、複合的視点からの真因究明に寄与し得た可能性もある。和解はそのプロセスをとばす選択、いいかえれば、学校と市教委がわるいという結論で終止符を打つ選択だともいえた。
 その選択には、市の過失をすすんで認めることによって少しでも社会の理解を得られればの期待も含まれていたことだろう。ただ、14歳の少年が自ら命を絶つに至った重大事件である。世の怒りを受けながらもより精度の高い原因究明を目指す選択肢もあり得た。もっとやればもっとわかったかもしれないのだが、その道が閉ざされることになり、同種の事件再発を防止する観点からはきわめて残念だった。

 たしかに、越市長はさらなる究明を放り出したわけではなくて、第三者調査委を立ち上げ、そこに真因解明プロセスを委ねた。ただ、市長が和解に進もうとしているなかでの第三者調査委である。市の決断が先行していたという背景事情は考慮に値する。
 教育長就任後の私は、二百数十頁にわたる報告書を読み込み再発防止策を練る立場にあった。第三者調査委の分析結果を大いに尊重したことは言うまでもないが、関係者を対象に独自の聞き取りを進めるうちに追随しがたい部分も出てきた。たとえ報告書と食い違ってもより信憑性の高い事実があればできるかぎりそちらを重視する心構えで具体策検討を進めた。


 いっぽう、和解+第三者調査委の道筋によって越市長が被告の立場を早く脱却できたとの見方もある。争い続ける限りは被告の座を下りられないが、和解を選択すれば被告の座を下りる目途が立つ。市長は自らの保身を優先させたという厳しい見方であるが、教育長として市長と直に触れるうち、私もこれに近い考え方を持つに至った。自分に都合がわるくなったときの掌返しは、なにもこの和解に限ったことではなかった。


 さて、和解への方針転換を表明した越市長は、学校や教育委員会を鋭く批判するようになった。第三者調査委の報告書が出された2013年1月以降は、その報告書に準拠するような形で、批判がさらに先鋭化した。
 そして、2013年4月には、「いじめ対策推進室」なる組織が市長部局に新設された。第三者調査委の分析内容を大いに反映した組織であった。私が教育長に就任してからひと月ちょっと経った時のことである。

 「いじめ対策推進室」の設立趣旨を、越市長の著作「教室のいじめとたたかう」をはじめとする参考資料で再確認してみると以下のようなことになる。

 「露呈された教育委員会のずさんな対応」を越市長は大いに問題視していた。その問題意識が、
・いじめへの対応や対策をもう学校や教育委員会には任せておくことはできない
・学校の先生や保護者、友人などに悩みを相談できない、或いは知られたくない子供たちが大勢いるから、これらの児童生徒の悩みに寄り添える組織が必要である
といった考え方につながった。このふたつの条件を同時に満たす目的で「いじめ対策推進室」が設立された。
 
 「教室のいじめとたたかう」113ページにはいじめ対策の組織概要が図説されている。

 図を見ると、市長部局には 「大津の子どもをいじめから守る委員会」が最上位にあって、いじめ事案のケース会議、学校や教育委員会への調査・調整、重大事態が発生した場合の調査機関の役割を担うとされている。
 この委員会と「いじめ対策推進室」は相互に連携して、いじめ対策の推進、いじめの相談、いじめ防止行動計画の策定、および、大津の子どもをいじめから守る委員会事務局を担うとされている。

 いっぽう、大津市教育委員会には「学校安全推進室」が設けられ、各学校との連絡・指導、24時間電話相談、子ども主体のいじめ防止活動への支援を行うことになっている。
 さらには「学校問題緊急サポートチーム」が作られ、困難事案に係る対処方針の検討、困難事案に係る学校への指導・助言、委員の学校への派遣及び問題解決に向けた対応.にあたるとされている。

 これらの対策活動の総称が、越市長いうところの「大津モデル」もしくは「大津方式」である。

 図を見てまず気づくことがある。
 市長部局の「大津の子どもをいじめから守る委員会」や「いじめ対策推進室」は教育委員会の「学校安全推進室」と「⇔」で結ばれているが、学校との間は「⇔」結ばれていない。学校と「⇔」で結ばれているのは、教育委員会内の「学校安全推進室」と「学校問題緊急サポートチーム」である。

 学校現場こそが様々な問題が日々沸き起こり、それらの事象と真摯に向きあい、苦闘しあるいは苦悩している「戦場」なのだが、そこと「⇔」で結ばれない。結ばれていないのは、上述した設立趣旨に拠るところかと推測される。

 では、学校との連携を前提としない「大津の子どもをいじめから守る委員会」や「いじめ対策推進室」とは一体どういう組織なのだろうか。次回は、こうしたいじめ防止対策の実態をみていきたい。



 以下は、記事の本題と直接関連しないが、教育長就任以前の私があのいじめ事件をどのように見ていたかの回顧録である。教育長に就任するとは思ってもいなかった頃の率直な感想として受け取っていただきたい。

 越市長が和解への方針転換を表明して以降、いいかえれば、私の教育長就任前の約半年間、ネットの大炎上、教育長への暴力事件、警察による学校の強制捜査、連日に及ぶ全国対象のメディア報道、誤報・虚報・悪意の捏造記事などが相互に影響しあって、大津市バッシングは加速していた。学校と教育委員会に対する抗議の電話は鳴り止むことを知らなかった。学校や教育員会に大きな責任があることは言うまでもないが、それにしても「お祭り騒ぎ」になってきたもんだと感じていた。表に出ない事実も多々あろうかと思われたが、世間は報道内容を額面通りに受け取る以外の判断材料を持たなかった。


 報道番組に登場する有識者や教育評論家も異口同音に学校や市教委を非難していた。彼らは世論形成に重要な役割を果たす立場でもあったが、それと同時に、「学校・教員・教育委員会がわるい」の圧倒的な世論にも支えられていた。世間の目に映る大津市教育委員会は、教育ムラ住人の典型的巣窟だった。2013年2月に出された第三者調査委の報告書は学校と市教委を容赦なく断罪していた。これでまた社会の義憤が増強されるだろうと思った。

 昔を思い起こせば、学校や教育委員会への批判がここまで大っぴらに展開されることは珍しかった。かつて地域の「えらいさん」のなかには「教師」や「巡査」や「医者」なども入っていた。えらい人たちがそう度々失態をやらかすことはないという暗黙の了解もあったし、世の中の役に立ってくれている人たちへの敬意が批判をはばからせる風潮もあった。
 ところが、昭和30年代の終わり頃からの高度経済成長期に大学進学率が急上昇するに連れ、よく言われることであるが、教員の学歴と保護者の学歴が逆転するのも珍しいことではなくなった。高学歴の大衆化や、それに伴う中間生活層の出現によって、学校教員の相対的な社会的地位が低下を始めたのだと私は考えている。
 つまり、教師のステータスが、どこにでもいる人とそう変わらないところに落ちついた。共同体の中の「えらいさん」や「名士」としての神通力が瓦解し、「学校の先生」から連想される「信頼、敬慕、厳格、公平、清廉」といったイメージも急速に薄れていったのだといえないだろうか。普通の人と同じように普通にエラーを起こすのだから普通に批判してもいいということである。


 教師のステータスが低下した高度経済成長期は大量生産の時代でもあった。「消費は美徳」の風潮は「お客様は神様です」との名文句を生み出した。売主と買主の関係性をなんと端的に言い表したフレーズかと私は思っている。
 この商業マインドで教員と生徒・保護者の関係性を模式化すると、「学校教育」というサービス商品を売る教員、それを買う生徒・保護者という位置づけになる。生徒・保護者は神様ということになるわけだ。現に、新自由主義的な競争原理至上主義においては、生徒・保護者は学校・教員の顧客であり、教育内容は生徒・保護者という顧客の満足度を高めるべき商品、とみなされる。
 つまり、高度成長期を経て、生徒や保護者は学校に対して自由に要求を突きつけることができる「お客様」の立場を獲得した。これが今日の学校と生徒・保護者の関係を形成する基本になったのだと私は思っている。

 と、当時の私はこんなことまで考えていた。いじめ問題をめぐる学校や市教委の対応を私も大いに問題視していたものの、そのいっぽうで世間の騒ぎ方が異常に思えた。なぜこれほどまでになっていくのか。瀬田工業高校校長という立場からの素朴な疑問だった。

2 件のコメント:

  1. 数日前から、大津通信とともに興味深く拝読しています。
    本題と関係のないところで反応してしまいましたが、今日の画像:聖母女学院のイルミネーションはいいですね。
    実は、ブログの内容はどちらも“なるほどなるほど、そういうことだったのか! さすが行政&教育のプロ”ですが、写真に関しては、大津通信は失礼ながら鑑賞のレベルとは言えないなぁと思っていましたところ、富田アーカイブはピン甘のサルトリイバラ以外はなかなかのお写真。新幹線の車中?からも撮されるなど、日常カメラを持ち歩かれているようで、今後の写真にも期待が高まってしまいました。
    勿論、中身にも興味津々、更新を心待ちにしております。

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  2. 和解による結着をご遺族が了承なさったのですから、その点において肯定的に受け止めるべきだと思っています。世界中の不満よりも遺族の満足が尊重されるべきだと私は思いますので、同種の事例再発防止に致命的支障をきたしたわけでもなし、富田氏ほど批判的に語る必然性はないと思います。

    ただひとつだけ残念だったのは、親としてどうあるべきかの答が見えないままに終わったことです。これといって問題のない和気あいあいの家庭であってもあのように深刻な不幸に襲われることが証明されたわけですが、それだけに、何をもってうちの子は大丈夫だと判断すればいいのかが分からなくなりました。同種の不幸を防ぎ得るのは学校や市教委だけだという風に受け取っていいとは思えないのです。あのように単純化された原因確定は、世間になお不満を残すものではなかったかと推測しています。

    本当にもう二度と起こしてはならない事例です。あの事件の教訓を生かした大津方式にどのような欠陥が潜んでいるというのか、富田氏の分析を待っております。

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